2019年12月10日
がじまん第408号-2(Essay 420)
山羊汁
飽食時代になって肉類が豊富に出回り、山羊汁が敬遠されてきたが、最近「山羊カレー」が新聞記事になったりして、山羊の料理法が研究されているようだ。
離島の学校に勤めていた頃、本島からの来賓や出張員には必ず「山羊汁」を振舞うのが、歓迎会での定番だった。肉類が簡単に手に入らない貧しい食生活時代には、山羊の肉は身近に得られる貴重な食肉だった。
高校に入学したのは、沖縄戦が終わって四年後だった。衣食住のすべてに事欠く貧しい時世で、特に、寄宿舎での食事はサツマイモとウンチェーバーの汁が主なメニューで、毎日腹を空かせていた。「肉」というものは全く口にできなかった。離島の実家から弁当を連絡船で送ってもらうようなこともあり、食べ物に飢えていた。
独身の先生たちも寮生と食事を共にしていた。
家族が宮古から引っ越してきたので、寮生との食事をしなくなった社会科を担当していた本村先生がおられた。酒好きで、夕食の時にはアルコールの匂いをさせていたことが多かった。試験前になると、冷やかし半分で、寮生がテストの問題を尋ねたりすると、漏らすことがある肝っ玉の太い、面白い先生だった。
ある日、本村先生から「山羊汁があるからS君と二人で来なさい。」との招待を受けた。喜んで出かけた。食卓を囲んでいる大勢の家族の中に高校一期先輩の、先生の息子がいた。小さくなって座った。
「空腹は最高の調味料」といわれるけれど、あの山羊汁と銀飯の味は生涯忘れられない。
あの日から三十年経って、私がある学校に勤めていた時、大学の教育実習生がやってきた。その中に「本村」という女性がいた。彼女のルーツを探ると、高校時代に美味しい山羊汁をいただいた本村先生の孫娘であることが分った。早速、彼女の父親、ともに山羊汁を食べた彼に電話を入れた。
先生はすでに亡くなられて会えなかったのは残念だった。あの時の山羊汁のお礼を告げると「ああ、あれね。あの汁は実は犬の肉だったんだ」と笑いながら答えていた。
しかし、私には本当に美味しい山羊汁だった。
宮城恒彦
飽食時代になって肉類が豊富に出回り、山羊汁が敬遠されてきたが、最近「山羊カレー」が新聞記事になったりして、山羊の料理法が研究されているようだ。
離島の学校に勤めていた頃、本島からの来賓や出張員には必ず「山羊汁」を振舞うのが、歓迎会での定番だった。肉類が簡単に手に入らない貧しい食生活時代には、山羊の肉は身近に得られる貴重な食肉だった。
高校に入学したのは、沖縄戦が終わって四年後だった。衣食住のすべてに事欠く貧しい時世で、特に、寄宿舎での食事はサツマイモとウンチェーバーの汁が主なメニューで、毎日腹を空かせていた。「肉」というものは全く口にできなかった。離島の実家から弁当を連絡船で送ってもらうようなこともあり、食べ物に飢えていた。
独身の先生たちも寮生と食事を共にしていた。
家族が宮古から引っ越してきたので、寮生との食事をしなくなった社会科を担当していた本村先生がおられた。酒好きで、夕食の時にはアルコールの匂いをさせていたことが多かった。試験前になると、冷やかし半分で、寮生がテストの問題を尋ねたりすると、漏らすことがある肝っ玉の太い、面白い先生だった。
ある日、本村先生から「山羊汁があるからS君と二人で来なさい。」との招待を受けた。喜んで出かけた。食卓を囲んでいる大勢の家族の中に高校一期先輩の、先生の息子がいた。小さくなって座った。
「空腹は最高の調味料」といわれるけれど、あの山羊汁と銀飯の味は生涯忘れられない。
あの日から三十年経って、私がある学校に勤めていた時、大学の教育実習生がやってきた。その中に「本村」という女性がいた。彼女のルーツを探ると、高校時代に美味しい山羊汁をいただいた本村先生の孫娘であることが分った。早速、彼女の父親、ともに山羊汁を食べた彼に電話を入れた。
先生はすでに亡くなられて会えなかったのは残念だった。あの時の山羊汁のお礼を告げると「ああ、あれね。あの汁は実は犬の肉だったんだ」と笑いながら答えていた。
しかし、私には本当に美味しい山羊汁だった。
Posted by 沖縄エッセイスト・クラブ会員 at 00:05
│会報がじまん