2020年02月10日
がじまん第410-2号(Essay 424)
心つなごう
令和元年十月下旬のこと。十一月三日の新報ホールでの音楽祭に出演するため、合唱の練習に余念がなかった。山上茂典作詞・作曲「心つなごう」という曲である。
一 悲しみに包まれて 涙があふれても
私たちはのりこえて ゆくだろう
心つなごう 愛をつなごう
手と手をつなごう 乗り越えてゆこう
二 すべてが無くなり 希望が絶たれても
(繰り返す)
十月三十一日午前五時過ぎ、盛岡在の息子から「首里城が火事、TⅤ見て」とのメールに飛び起きた。オレンジの炎の中にたくさんの円柱が燃えている。目を疑う光景が映し出される。息子からまた、明日嫁と義母と甥を連れて首里城に行く予定だったと追伸がきた。
翌一日はコーラスの練習日であった。話題はもちろん城炎上で、消失した文化遺産、再建はどうなるの?……練習に入り、歌詞を歌うと涙が出てきた。今の首里城を詠んだ歌ではないかと錯覚する思いだった。
実はこの曲は、東日本大震災後に造られた復興の歌、応援歌である。「すべてが無くなり」という言葉が身に染み、歌っている態度もこれまでとは違う。女性三部合唱で歌ったが、きっと会場の観客もそういう気持ちで聴いてくれていたことであろう。
首里城界隈は私にとって縄張りであった。幼稚園、小学校はお膝もとの城西小学校で、勿論城はまだ無く、龍潭で水を汲み清掃した記憶がある。それから首里中、首里高と通学した。大学の四年間は京都で過ごし、卒業後新卒を中部農林高校で数学の教鞭をとったが、二年目から首里高校に赴任して三十四年を過ごす。その後定年間近の転勤先は、首里高より通勤距離がわずか二百メートルほど短くなった県立博物館であった。琉球王朝のすべてを展示、解説、保存、収集するのが博物館の仕事で、私は指導主事という名目で、学芸員の仕事をした。龍潭の真向かいにあった当時の博物館で、朝晩といわずデスクから首を曲げれば、復元後の首里城の赤瓦の屋根が見えた。城があるのはしごく当然の事で、定年後は俳句会で首里公民館を毎月利用しており、その部屋の私の席から城の甍が見えていた。
火災後すぐ福島の友人から見舞いの電話があった。彼女自身あの大震災の罹災者で沖縄に移住し六年間を過ごした。一緒にサークル活動をした思い出は宝ですと常に言う。また四年前に埼玉県熊谷市のコンサートに友情出演した合唱団からすぐ見舞金が新報社に寄せられていた。その行動の早さ、その気持ちに勇気づけられた。
私達も何かと思っていた矢先に、首里高の同期生が「私達はやるしかないのです」と立ち上がってくれた。遠く離れていても心は繋がっていると確信が持てた。
いなみ悦
令和元年十月下旬のこと。十一月三日の新報ホールでの音楽祭に出演するため、合唱の練習に余念がなかった。山上茂典作詞・作曲「心つなごう」という曲である。
一 悲しみに包まれて 涙があふれても
私たちはのりこえて ゆくだろう
心つなごう 愛をつなごう
手と手をつなごう 乗り越えてゆこう
二 すべてが無くなり 希望が絶たれても
(繰り返す)
十月三十一日午前五時過ぎ、盛岡在の息子から「首里城が火事、TⅤ見て」とのメールに飛び起きた。オレンジの炎の中にたくさんの円柱が燃えている。目を疑う光景が映し出される。息子からまた、明日嫁と義母と甥を連れて首里城に行く予定だったと追伸がきた。
翌一日はコーラスの練習日であった。話題はもちろん城炎上で、消失した文化遺産、再建はどうなるの?……練習に入り、歌詞を歌うと涙が出てきた。今の首里城を詠んだ歌ではないかと錯覚する思いだった。
実はこの曲は、東日本大震災後に造られた復興の歌、応援歌である。「すべてが無くなり」という言葉が身に染み、歌っている態度もこれまでとは違う。女性三部合唱で歌ったが、きっと会場の観客もそういう気持ちで聴いてくれていたことであろう。
首里城界隈は私にとって縄張りであった。幼稚園、小学校はお膝もとの城西小学校で、勿論城はまだ無く、龍潭で水を汲み清掃した記憶がある。それから首里中、首里高と通学した。大学の四年間は京都で過ごし、卒業後新卒を中部農林高校で数学の教鞭をとったが、二年目から首里高校に赴任して三十四年を過ごす。その後定年間近の転勤先は、首里高より通勤距離がわずか二百メートルほど短くなった県立博物館であった。琉球王朝のすべてを展示、解説、保存、収集するのが博物館の仕事で、私は指導主事という名目で、学芸員の仕事をした。龍潭の真向かいにあった当時の博物館で、朝晩といわずデスクから首を曲げれば、復元後の首里城の赤瓦の屋根が見えた。城があるのはしごく当然の事で、定年後は俳句会で首里公民館を毎月利用しており、その部屋の私の席から城の甍が見えていた。
火災後すぐ福島の友人から見舞いの電話があった。彼女自身あの大震災の罹災者で沖縄に移住し六年間を過ごした。一緒にサークル活動をした思い出は宝ですと常に言う。また四年前に埼玉県熊谷市のコンサートに友情出演した合唱団からすぐ見舞金が新報社に寄せられていた。その行動の早さ、その気持ちに勇気づけられた。
私達も何かと思っていた矢先に、首里高の同期生が「私達はやるしかないのです」と立ち上がってくれた。遠く離れていても心は繋がっていると確信が持てた。
Posted by 沖縄エッセイスト・クラブ会員 at 00:00
│会報がじまん