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2021年02月10日

がじまん第422号-2(Essay 448)

父の年齢
南ふう 

 朝方、暖かな布団の中でまどろみながら、父が沖縄エッセイスト・クラブを立ち上げたのは、何歳の時だったのだろうと考えた。私が京都の向日市(むこうし)鶏冠井町(かいでちょう)の、あのアパートに住んでいた時……私は二十六か七。すると父は六十六か七……私は父が四十歳の時の子だから計算が楽なのだ。
 なんと、私はその時の父の年齢になっている。
 合同エッセイ第十集『長虹堤(ちょうこうてい)』に残された父の「エッセイ今昔物語」には、一九八二年九月に旗上げした当会のエピソードなども書かれている。それによると、同年六月、父が日本エッセイスト・クラブに入会したことが契機となったようだ。つまり、刺激を受けて発案してから三ヶ月後には当会が発足したことになる。
 しかし、日本エッセイスト・クラブへの入会だけが理由ではないことが今の私なら分かる。父は最愛の妻を亡くして心にぽっかりと空いた穴を埋めるために、当クラブの創立を思い立ったのだろう。私の母が亡くなったのは一九七九年の十二月。私はその翌年に嫁に出た。父は独りになった家で、何か心の支えになるもの、情熱を傾けられるものを模索し、契機を得て猛進し、協力者を得て、わずか三ヶ月で創立に漕ぎつけることができたのだと思う。
 私が結婚生活にピリオドを打って帰郷した時の父は八十四歳。家庭内では頑固で、主張を譲らなかった父が、その頃から弱々しくなった。自分の行為が父を老いさせてしまったかも知れないと自己嫌悪に陥った娘だが、蛙の子は蛙。若い頃は文学にまったく興味のなかった私も、二〇〇二年秋に亡くなった父と入れ替わるかのように、その半年後に入会。奇遇にも私のペンネームに似ている第二十集『南風(はえ)』刊行の年で、第二十一集『ゆい』から寄稿させてもらっている。
 十七年間でとくに印象に残るのは、創立三〇周年のイベントと、エッセイ集のタイトル変更だ。
前者は中山勲会長の時で、これまでの全会員のエッセイを収録した『百花苑』を発行した。編集に携わることができた私は、戦後の沖縄復興に尽力した錚々たる方々が会員だったことを知り、驚いたものだ。また故人の作品を集める際、当時の内間美智子事務局長には、とても助けていただいた。
 後者は我那覇明会長の時。それまで毎年本のタイトルを変えていたが、組織内ではそれが定例でも、一般読者には同じ組織の発行だとの認識が薄いから固定化した方がいいという発案だった。議論を経て三十五集からは、『沖縄エッセイスト・クラブ作品集35』というように、組織名と発行回数が一目で分かるタイトルとなった。我那覇前会長の功績である。
 ぴよぴよだった私が、十七年という歳月の中で鍛えていただき、編集委員長という重責を仰せつかった。さらなる精進はもちろんのこと、これからできる限りの恩返しをしなければと思っている。
旧役員のみなさま、ほんとうにお疲れさまでした。


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