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2022年04月10日

がじまん第436号-2(Essay 476)

どうなっているのプラトン             
ローゼル川田

 コロナ禍にあっても、規則正しく外出している。街の中は極めて静かで、特にホテル内は広くて静かである。ある著名な音楽家が平均週二度にわたり声をかけてくれる。話題は極めて多岐にわたるので緊張感も持続しなければならない。音楽から琉球の太陽信仰から思想から宇宙まで。緊急事態前は「ハッピーアワー」とかのサービス料金で、コロナに細心注意しながらのハッッピーアワーである。会話まで?
 彼は明るい表情で「この子は最初のカミさんとの子、長男…」と紹介する。次の機会がやってくると「この子は二番目のカミさんとの子、長男。ミュージシャンでいい奏者…」なんやらかんやらで、とうとう合計三人の子どもたち会った。何よりもボクが受けた印象は、自然な感じで時々お互いは会えていることだ。ということは、過去?に二~三人のオクサンがいて今は?と、聞いてみたいけど聞けないので、しかし聞けるかもしれない。実に大らかな印象を与えてくれるが、実は、ヤマチリながら乗り越えてきたかもしれない。
 このようなショートエッセイでは、肝心なことを深めることは出来ないが、かと言って、当たり障りのない個の表出でも面白くない。という冠の下で、憧憬も込めて、音楽家の恋愛観を、否、音楽家に限られたことではなく人間の普遍性まで増幅してみたい。
 時は遥か遠い昔、紀元前の思想家・哲学者ソクラテス、プラトンの難解な恋愛哲学を唯我独尊で引き寄せてみる。 
 エロス(愛)とは「美しいもの(いろいろある)」を手に入れようと思い行為に移すことで、その延長線上に存在すると。その過程で、人は死ぬ運命だから「不死」を求めて、生むことが産出となり「不死」となる。ちょっとカオスになりそうだが、要するにカッコいいとか可愛いとか「肉体的な美意識」は一人の他者を相手にではなく、一人の人の美やエロス(愛)に固執するのでもないと。
 一人だけ特定して美を固定化している内は「美」を理解できていないのだという。これは博愛主義とは位相が異なる。そこで数多くの愛を求め、それぞれの中に共通の「美」が存在することを認識。同じ一つの美がいろんな人に宿ることを知ること。それはリアルに経験することでしか理解できないことであり、「美」へたどり着くことでもある。さらにその次の段階に「精神の美」へと深まっていく。
 ホテルの「ハッピーアワー」で思考が深まり、つい考える。音楽家はソクラテス、プラトンのエロス(愛)を無意識に実践しているのだろうか。
 今からでも遅くはないと思いながらも、せめて言語表出だけでもしてみたい。
「人間の美徳はすべてその実践と経験によっておのずと増え、強まるのである」ソクラテス



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