2023年06月10日
がじまん第450号-1(Essay 503)
異界体験
こんな夢をみた。自宅のマンションのエレベーターに乗ったが六階を押すのを間違えて七階を押してしまった。階段で降りようと思い、七階でエレベーターを出た。すると、私は見たこともない街の雑踏の中にいた。土ぼこりの広場に数多くのテント小屋があり、いろいろな物を売っていた。人々の風貌や独特な服装などから中国の一地方のようだった。そのうち私は高さが十メートル以上もある石造りの壁に囲まれた百メートル四方もある大きな広場に迷い込んだ。昔の皇帝の墳墓のようで、草一本もなく、人の姿も見えなかった。不安になり、入ってきた入り口を必死に探したがどうしても見つけることは出来ず、途方に暮れていた。その時、目が覚めた。
日常生活の中に稀に起こる現在の科学では説明できない不思議な現象を霊的世界の影響として異界と呼ぶようだが詳しいことは知らない。夢の中ではしばしば体験するので自分の心の無意識層に隠れている不安があるのかと思ったりするが、追究しようとは思わない。しかし異界体験というほどではないが、現実の世界でも一瞬「あれ?」と驚くことは時々ある。
ジュンク堂書店の裏のガーブ川沿いの狭い道を歩いていたが、近道のために狭い初めての路地に入った。路地を抜けると広場があり、目の前にまるでインカの遺跡のような高さ二メートル、長さが二〇メートル程の石造りの壁が五段の階段状になった建造物が出現した。
その上方にオウゴマダラが一匹ゆらゆらと霊魂のように飛んでおり、先日見た夢のように異界に迷い込んだのかと一瞬思った。そこは緑が丘公園であることが後で分かった。
しかし、異界は摩訶不思議な世界ではなく、私たちの日常は異界に満ちているとも考えられる。いつも通っている大きな道も一筋裏の小さい通りに入ると貧し気な家並みが続いており、急に懐かしさがこみ上げてくることがある。また職場で何年も毎日のように顔を合わせる多くの同僚たちもどこに住み、どのような家庭や生活を営んでいるのか全く分からない。私たちの人間関係はお互いよく知っているようで知らないことが大部分である。その点、お互い異界の者同士とも言える。
また人の心の中は異界の坩堝といっても過言ではない。自分の心の中を見ると善も悪も美も醜も混在している。その中から選択して表現しているものが自分の人格であり、ありたい自分である。時々マスメディアで報道される事件の犯人のことを評して、会えば挨拶をする穏やかな人だったと近所の人が言うことがあるが、犯人が世間を欺いていたのではなく、何らかの理由で心の中の異界が現れたのだろう。心しなければと思う。
中山勲
こんな夢をみた。自宅のマンションのエレベーターに乗ったが六階を押すのを間違えて七階を押してしまった。階段で降りようと思い、七階でエレベーターを出た。すると、私は見たこともない街の雑踏の中にいた。土ぼこりの広場に数多くのテント小屋があり、いろいろな物を売っていた。人々の風貌や独特な服装などから中国の一地方のようだった。そのうち私は高さが十メートル以上もある石造りの壁に囲まれた百メートル四方もある大きな広場に迷い込んだ。昔の皇帝の墳墓のようで、草一本もなく、人の姿も見えなかった。不安になり、入ってきた入り口を必死に探したがどうしても見つけることは出来ず、途方に暮れていた。その時、目が覚めた。
日常生活の中に稀に起こる現在の科学では説明できない不思議な現象を霊的世界の影響として異界と呼ぶようだが詳しいことは知らない。夢の中ではしばしば体験するので自分の心の無意識層に隠れている不安があるのかと思ったりするが、追究しようとは思わない。しかし異界体験というほどではないが、現実の世界でも一瞬「あれ?」と驚くことは時々ある。
ジュンク堂書店の裏のガーブ川沿いの狭い道を歩いていたが、近道のために狭い初めての路地に入った。路地を抜けると広場があり、目の前にまるでインカの遺跡のような高さ二メートル、長さが二〇メートル程の石造りの壁が五段の階段状になった建造物が出現した。
その上方にオウゴマダラが一匹ゆらゆらと霊魂のように飛んでおり、先日見た夢のように異界に迷い込んだのかと一瞬思った。そこは緑が丘公園であることが後で分かった。
しかし、異界は摩訶不思議な世界ではなく、私たちの日常は異界に満ちているとも考えられる。いつも通っている大きな道も一筋裏の小さい通りに入ると貧し気な家並みが続いており、急に懐かしさがこみ上げてくることがある。また職場で何年も毎日のように顔を合わせる多くの同僚たちもどこに住み、どのような家庭や生活を営んでいるのか全く分からない。私たちの人間関係はお互いよく知っているようで知らないことが大部分である。その点、お互い異界の者同士とも言える。
また人の心の中は異界の坩堝といっても過言ではない。自分の心の中を見ると善も悪も美も醜も混在している。その中から選択して表現しているものが自分の人格であり、ありたい自分である。時々マスメディアで報道される事件の犯人のことを評して、会えば挨拶をする穏やかな人だったと近所の人が言うことがあるが、犯人が世間を欺いていたのではなく、何らかの理由で心の中の異界が現れたのだろう。心しなければと思う。
Posted by 沖縄エッセイスト・クラブ会員 at 00:00
│会報がじまん