2003年02月05日
がじまん第11号
私の文章作法
書き出しは曲者である。懲りすぎるとキザだし、平凡すぎるのもつまらない。だから、いつも悩まされる。手紙文のように拝啓・時候の挨拶という型があれば、よいのだが、それがない。第一行目に何を書くか、すべてはそこで決まるような気さえする。
さらりとした書き出しがよいといわれている。ところが、その「さらり」というのが難しい。それにすべての文章に当てはまるのかどうか。
思うに、それは肩のこらない随筆にはよく当てはまる。日常茶飯事のことを気軽に書くのに適しているからである。服装でたとえると礼服よりも浴衣が似合っているのに似ている。エッセイは、随筆よりも内容分野が広いので、内容によっては意表をつく文や、硬い文で始めるのも悪くはない。
とにかく、エッセイは論文と違って文章が柔軟なので流動するし、それだけに書き出しには気をつけている。読む気を起こさせるかどうかは、書き出ししだいだからである。
次に気をつけているのは、締めの文である。
文末に締りがないと、それまでの印象を台無しにするかもしれないからである。きりっとした短文がほしい。そのためには、ダメ押しをしないこと。とかく、私たちはもう一声かけたくなる。くどくど付け足したくなる。そこをぐっと堪えて、さっと切り上げ、涼しい顔をする。余韻はそこから生れる。短編の場合、とくに効果的である。
とは言っても、中身がなければ意味がない。その上での書き出しと締めの文である。内容ではなく、文章のよしあしは、その二つに尽きるといえるかもしれない。
さて、この駄文をどう締めるか、昨日から苦慮している。
儀間進
書き出しは曲者である。懲りすぎるとキザだし、平凡すぎるのもつまらない。だから、いつも悩まされる。手紙文のように拝啓・時候の挨拶という型があれば、よいのだが、それがない。第一行目に何を書くか、すべてはそこで決まるような気さえする。
さらりとした書き出しがよいといわれている。ところが、その「さらり」というのが難しい。それにすべての文章に当てはまるのかどうか。
思うに、それは肩のこらない随筆にはよく当てはまる。日常茶飯事のことを気軽に書くのに適しているからである。服装でたとえると礼服よりも浴衣が似合っているのに似ている。エッセイは、随筆よりも内容分野が広いので、内容によっては意表をつく文や、硬い文で始めるのも悪くはない。
とにかく、エッセイは論文と違って文章が柔軟なので流動するし、それだけに書き出しには気をつけている。読む気を起こさせるかどうかは、書き出ししだいだからである。
次に気をつけているのは、締めの文である。
文末に締りがないと、それまでの印象を台無しにするかもしれないからである。きりっとした短文がほしい。そのためには、ダメ押しをしないこと。とかく、私たちはもう一声かけたくなる。くどくど付け足したくなる。そこをぐっと堪えて、さっと切り上げ、涼しい顔をする。余韻はそこから生れる。短編の場合、とくに効果的である。
とは言っても、中身がなければ意味がない。その上での書き出しと締めの文である。内容ではなく、文章のよしあしは、その二つに尽きるといえるかもしれない。
さて、この駄文をどう締めるか、昨日から苦慮している。
Posted by 沖縄エッセイスト・クラブ会員 at 00:00
│会報がじまん