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2003年09月10日

がじまん第32号

「夜這い」と「名前」
―名は体を表す―

島元巖

 かつて、男が、夜間に女性のもとへ忍び込むことを「よばい」といった。「よばい」という言葉は、呼ばふ(よばふ)という動詞の連用形・「よばひ」が名詞化したものだと考えられる。その「よばひ」には、①何度も呼ぶ、②求婚する、③男が女のもとへ夜陰に乗じて忍び込む、等々の意味がある。夜陰に乗じて忍び込むことから、夜這い(よばい)という漢字が当てられた。手さぐりで這いずり回る男の姿が目に浮かぶ。男は、「君の名は?」と、何度も女性の名を尋ねたことであろう。大昔の話ではある。
 「がじまん30号」には、「名は体を表すか?」の雑文を載せたが、普通、「名は体を表す」という。名前は、実体や本質を表すというのである。人間の場合、名前は、その人の魂を表すものと考えられていた。だから、古代においては、自分の名前を明かすということは、魂まで相手に明け渡し、すべてを許す心の証であった。男が、女性に名前を尋ねるということは、即、プロポーズを意味していたし、男から名前を聞かれた女性が、その本名を明かすということは、プロポーズを受けることを意味していた。万葉集の巻頭を飾る、次の歌が求婚の歌であると解される根拠はそこにある。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふぐし)もよ 
み掘串持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ
名告らさね(どこの家の児か聞きたい、名前をおっしゃいな)
そらみつ大和の国は おしなべて 我こそ居れ
我こそは告らめ 家をも名をも (雄略天皇)

 ところで、文章の名前(タイトル)は、その文章の中心思想に係わる言葉で表すのが一般的であろう。つまり、文章においても、名は体を表すものと考えられる。
 先月の合評会では、特に、文章のタイトル(名前・標題)の付け方に比重をかけてみた。中山勲さんの『テレビで観た感動』は、そのものずばり、主題(『○○について』の○○に相当するもの)を表したものであった。比嘉美智子さんの『生命の精』も、主題(中心思想)に迫るもので、両方とも、名は体を表していた。


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