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2003年09月19日

がじまん第34号

私のサンタさん
島元巖

 「私のサンタさん」といっても、「サンタ・クロース」のことではない。「多く読み、多く書き、多く考える」、文章上達の「三多」のことである。
 ①多く読むとは、文章を多く読むことはもちろん、多く見聞し、多く体験し、数多く情報を集めることだと、広げて考えたい。そのための基本は、知的好奇心を旺盛にすることであろう。野次馬根性をかきたてる、と言い換えてもよい。
 多く読むためには、読書意欲が問題になる。食欲は食べるほどに増すというが、読書意欲も、読めば読むほど旺盛になる。読書意欲は、知的好奇心の一種でもある。だから、何でも見てやろう、聞いてやろうと、日々、問題意識をもって生きることが、多く読むことに繋がる。目・鼻・口・耳のすべてを感度のよいアンテナにすることである。
 メモ帳携帯を習慣化し、資料の収集に努めよう。収集した資料は、いつでも、簡単に活用できるように整理・保存しておこう。そのためには、パソコンが威力を発揮するだろう。新聞の切り抜き等もお勧めしたいことの一つである。
 読んだり、見たい、聞いたりして、おや!? っと思ったことをほっとかずに、その答え探しを楽しみたい。学習とは、「問い」と「答え」との間のプロセスのことだという。学習は、一生涯続くものだという。だから、人は、それを生涯学習(しょうがいがくしゅう)という。その生涯学習は、生き甲斐学習(いきがいがくしゅう)でもある。野次馬根性を旺盛にし、自らが自らに問いを発し、その答えを読書の中から探す楽しみを味わうことにしよう。とにかく、読むことと書くこととは表裏の関係にある。
 ②多く書くとは、文字通り数多く書くことである。私は、「○○について書こう」と、いわゆる主題が決まり、仮のタイトルが決まれば、後は、一気に書き上げる。そこはかとなく(其処は彼となく・ソコワカトナク)、止めどもなく一気に書く。書きながら、AからB・Cへと、連想ゲームを楽しむ。書きながら、空想の世界(メルヘンの世界)へも飛翔する。だから、書いている最中は、文章の構成とか表現とかは、全く念頭にも眼中にもなり。私にとってのエッセイとか随筆とかは、そういうふうにしてでき上がった文章のことである。でき上がったものをフロッピーに保存し、推敲は、ほとんど翌日以後に回している。やはり、パソコンは必需品。それさえあれば、気の向くまま、いつでも何度でも書けて、しかも、とっかえひっかえ、書き換えも自由自在である。いろいろな情報も簡単に手に入る。
 ③多く考えるとは、よく推敲することを指す。文章を書く過程や、特に書いた後で、何度も何度も、じっくりと文章を練り直すことである。具体的には、用字・用語・仮名遣いは適切か。事実の誤認はないか。不適切な表現はないか。文章に論理の破綻はないか。文章の構成はどうか。タイトルは適切で効果的か。言いたいこと・話したいこと・伝えたいこと・感じたこと・思ったこと等が、ちゃんと表現されているか。読者にとって、わかりやすい文章になっているか、等々が推敲の対象であろう。
 推敲の過程では、思考力がフル活動する。思考力をスムーズに回転させるためには、日頃から思考停止に陥らない訓練が必要だと思う。考え出したら、雪ダルマ式にどんどん膨らませる訓練である。さまざまな資料を関連づけ、止めどもなく発展する一種の連想ゲームであり、頭の体操である。だから、書くことは楽しみであり、健脳にも繋がる。
 三多は、知的好奇心の問題・思考法の問題・言語感覚の問題等と不離一体である。卓話では、これらの問題も含め、具体的な話を通して、いくつかの問題提起を試みたい。


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