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2003年12月10日

がじまん第39号

卓話「無為のすすめ」要約(二)
金城弘征

 無為の境地とは、具体的にどのような心的状況を指すのか、洞察を一歩進めてみたい。
 禅に心身脱落という心体験がある。座禅が佳境に入ったある瞬間、身体感覚や自我意識がストンと脱け落ちて、あとに純粋意識とでも呼ぶべきものが残されるという神秘的な体験である。この純粋意識は、もはや個であって個ではなく、万物と融合して広大無辺の広がりを持つという。これこそが生命の本体であり、仏教の唯識思想があらゆる存在の根源と見做すアラヤ識にほかならない。アラヤ識の世界では、心は自我の呪縛を解かれて自由自在、融通無碍(むげ)であり、自と他は二にして一、一にして二とか、自他一如という言葉が実在の心理としてじかに感得できるのである。老子が、無為にして為さざるなし、と言い放った境地がここへ来てはじめて真の意味で理解される。
 自我意識は、人間の抱えるあらゆる苦や煩悩の元凶と見られ、それを断つことが仏道修行の眼目になっている。トウィンビーは言う。「世界の偉大な宗教には一つの共通項がある。いずれの宗教も自我意識を脱却したその向こう岸に、魂の安らぐ楽土があることを教えている」と。
 では、どうすればその自我意識からの脱却が果たせるのか、アプローチの歩を一歩進めてみよう。この点について知識人が陥りやすい一つの落とし穴のあることを、まず指摘しておきたい。それは、読書を通して心の糧を得る方法が自我意識からの脱却にも有効である、と思い込むことなのだ。自我意識との格闘には徹底した自己との対峙が要求されるのであり、そのためには、一切の観念の働きを停止して、心のアンテナを内側に向けて固定しなければならない。読書の場合、心のアンテナは外へ向けられているのであり、向かっている方向が逆なのだ。
 座禅を例にとって、悟りに至るプロセスを観察してみよう。座禅は、全神経を丹田に集中して、呼吸とわれ(我)とが一体となるように工夫する精神集中の一技法である。そうすることによって、われわれの意識水準は、顕在意識の世界から深層意識の世界へと沈められていく。目指すアラヤ識は深層意識の一番底辺に埋もれているのだ。
 悟りに至るプロセスは、つまるところ、深層意識を探る旅である。人間の深層意識は、実在の神秘を解くカギを秘めた宝の山なのだ。


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