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2004年06月10日

がじまん第52号

パソコン雑感
上原盛毅

 先日、「がじまん」への寄稿を頼まれ、いざ書く段になってガクゼンとした。漢字が浮かんでこない。文書構成がなっていない、修正がうまくいかないなど散々な目にあったのである。結局、パソコンで文書をしたため、それを原稿用紙に写すことにした。まるであべこべではないか。七年前からパソコンを使い始めたのがいつの間にか習い性となって、頭を使わず機械に頼りきりになってしまったらしい。だからといって、いまさらパソコンを使うなというのは無理である。カラオケの画面なしに歌を歌えというに等しい。原稿用紙に書けというのがそもそも時代遅れというべきではないかと開き直りたくなる。
 ある作家は、ローマ字や仮名文字から漢字変換する際に思考の中断、リズムの乱れが生じるので、感性を大事にする作家にとって、パソコン使用は邪道というが、単なる慣れの問題のように思える。それよりも文章作成のスピード、辞書や百科事典の役目、文書修正の簡便さ、編集の自在さ、悪筆を気にしなくてよい等々パソコン利用のほうがはるかに利点は多い。
 我々の社会では、すでに三桁以上の掛け算・割り算は計算機がやるもので、手計算は無意味になっているし、その伝でいけば、将来の国語教育は、漢字の手書き訓練よりも、パソコンによる漢字変換の正確さが重要になってくるに違いない。もちろん自分の名前も書けないような輩が出てきては困るが、現実に計算を扱う場合、単に数字が書けて、加減乗除の意味が分かれば、後は計算機によって銀行の複利計算であれ、株式の利得勘定であれ、かなり高度な計算もできるようになってくるのと同じく、国語教育も日常生活で手書きの必要な基礎部分とパソコンで展開する応用部分とに分け、前者は従来のやり方で教え、後者についてはパソコンによる言葉の入力、正確な文字変換の訓練をすれば、ボキャ貧、表現力の低下などの問題は改善されるかもしれない。
 世にいうIT革命なる諸々の現象についていくのは益々シンドクなってきたし、いわんや「ユビキタス」なる社会は想像もつかないが、これが時代の流れであれば、良し悪しは別にして、少しでも適応していかなければならない気がする。ただし、川柳はいわく。

  憂鬱や 薔薇は打てても 書けはせず


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