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2004年07月24日

がじまん第56号

色ざんまい②
―「緑の黒髪」とは? そして青と緑の混同―

島元巖

 黒い髪なのに「緑の黒髪」という。緑なのに、野菜のことを「青物」という。言葉というのは妙なもの、味なものである。
 沖縄の方言では、草木のみずみずしい新芽のことを「ミドゥン」という。「ミドゥン」とは「みどり」のことで、後に、この「みどり」が、色の名前である緑の語源になったと考えられる。しかし、語源はどうあれ、現在、緑という言葉は、色を意味するのが普通である。だから、「緑の黒髪」という表現は、ちと変である。だが、この表現は、かつて、「みどり」が草木の新芽を意味していたころの名残りで、いわゆる語源的用法である。「緑の黒髪」は、「みずみずしい黒髪」とか「艶のある美しい黒髪」という意味である。
 普通、交通信号灯の色は、「赤・黄・青」だという。しかし、信号灯の青は緑ではないか、という人も多い。確かに、信号灯をよく見ると「赤・黄・緑」もある。それでも、信号灯の色は赤・黄・青だという。この場合の青には、「緑」も含まれている。このような青と緑の混同の経緯や原因は、およそ、次の二つが考えられる。
 一つは、色彩語が貧弱だった古代の名残りかと思われる。わが国における最も古い色彩語(色名)は、アカ(明)・シロ(顕)・クロ(暗)・アオ(漠)の四つであったという。つまり、ある時代においては、アオ(漠)はあってもミドリはなかった。そこで、緑に近い青で緑をも表すようになったと考えられる。「目に青葉山ほととぎす初がつお」や「あらたふと青葉若葉の日の光」という句の「青葉」も、この種の青であろう。「青々とした麦畑」ともいう。「○○の名残り」とは、一種の文化の継承だろうか。
 二つ目は、青と緑の境界線のあいまいさではないだろうか。これは物理学や色彩学の問題である。色の違いは、光の波長の違いによって生じるという。赤には赤の、青には青の、波長があるらしい。そして、人間の目で感知できる可視光線の波長は、七〇〇ナノメートルから四〇〇ナノメートルの範囲内のものだという。その可視光線の波長を、上から、大きい順に並べると、次の通りである。
「赤→橙→黄→緑→青→藍→紫」
 青と緑が近接した波長であることが分かる。緑から青の方向へ、だんだん波長を短くしていくと、緑は青に限りなく近づいていき、青と緑は境界不明となる。ということで、緑という色彩語のなかった時代、青が緑をも代表するようになった。独断ではある。
 青は冷たさ・涼しさ・爽やかさを象徴する。青は若さや未熟さとも結びつく。だから青年といい、青二才ともいう。そして緑は、目にやさしく、癒しの色である。それは生命の象徴でもある。ということで、今更、緑の必要性を説くまでもあるまい。


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