2005年01月15日
がじまん第71号
人覚え
時折、通りすがりに相手が誰であるか自分ではよく分からないが、挨拶されることがある。何処かで親しく会話を交えた人であることは確かだが、何処の誰であったのか、見当がつかないので、会釈程度ですませているが、もしかしたら失礼なことをしたのではないか、と自戒させられたことが何度もある。
そのようなことを反省し、たまには自分から進んで顔見知りと思って声をかけると人違いである場合が多い。その時の体裁の悪いこと、恥ずかしいものであるが、このような失敗を何度も繰り返している有様である。
勘違いして見知らぬ人に声をかけ恥ずかしい思いをしないため、時には顔見知りと思っても慌てずに、相手の反応を確認してから声をかけることも少なくない。
また、通りすがりと違ってゴルフ練習所、その他、何処かの待合所などで親しく声をかけられてきたときなど、会話の内容からして、相手は私のことをよく知っているような場合がある。地域の自治会で会った人なのか、それとも以前、PTAで知り合った知人なのか、見当がつかないときなどである。適当に話を合せていれば、そのうち何処の誰であったか、思い出すに違いないと思いながら話を合せても、なかなか思い出せないことがある。そのようなときほど人覚えの悪さを痛感させられるものはない。
その人の顔立ちとか、体格など特徴があれば覚えているが、そうでない普通の場合は、勘違いして、人違いしていることが多い。しかし、何処で会ったか話せば、すぐ分かることであるが…。
それに反して同期会の集まりなどで、自分は相手のことをあまり記憶していないが、相手は私のことをよく覚えている場合がある。そのようなとき話が進み、親しみが一段と増してくるのは嬉しいものである。人覚えがいいのは人徳といえるのだろう。
それに比べ自分はどうも人覚えが悪くて、肩身の狭い思いをしたり、恥ずかしい思いをすることが多い。人覚えだけは努力しようと思っても改善できそうもないので、仕方なく、成り行き任せに対応するしかないと思っている。
宮野賢吉
時折、通りすがりに相手が誰であるか自分ではよく分からないが、挨拶されることがある。何処かで親しく会話を交えた人であることは確かだが、何処の誰であったのか、見当がつかないので、会釈程度ですませているが、もしかしたら失礼なことをしたのではないか、と自戒させられたことが何度もある。
そのようなことを反省し、たまには自分から進んで顔見知りと思って声をかけると人違いである場合が多い。その時の体裁の悪いこと、恥ずかしいものであるが、このような失敗を何度も繰り返している有様である。
勘違いして見知らぬ人に声をかけ恥ずかしい思いをしないため、時には顔見知りと思っても慌てずに、相手の反応を確認してから声をかけることも少なくない。
また、通りすがりと違ってゴルフ練習所、その他、何処かの待合所などで親しく声をかけられてきたときなど、会話の内容からして、相手は私のことをよく知っているような場合がある。地域の自治会で会った人なのか、それとも以前、PTAで知り合った知人なのか、見当がつかないときなどである。適当に話を合せていれば、そのうち何処の誰であったか、思い出すに違いないと思いながら話を合せても、なかなか思い出せないことがある。そのようなときほど人覚えの悪さを痛感させられるものはない。
その人の顔立ちとか、体格など特徴があれば覚えているが、そうでない普通の場合は、勘違いして、人違いしていることが多い。しかし、何処で会ったか話せば、すぐ分かることであるが…。
それに反して同期会の集まりなどで、自分は相手のことをあまり記憶していないが、相手は私のことをよく覚えている場合がある。そのようなとき話が進み、親しみが一段と増してくるのは嬉しいものである。人覚えがいいのは人徳といえるのだろう。
それに比べ自分はどうも人覚えが悪くて、肩身の狭い思いをしたり、恥ずかしい思いをすることが多い。人覚えだけは努力しようと思っても改善できそうもないので、仕方なく、成り行き任せに対応するしかないと思っている。
Posted by 沖縄エッセイスト・クラブ会員 at 00:00
│会報がじまん