2005年04月05日
がじまん第75号
心中の虫 ―日記抄―
某月某日
二〇〇五年は「群像」を精読することに決めた。六十歳を期して、あらためて小説を書く初歩的なことを、修行として己に課してみたくなったということだ。六十の手習い。心を劇場にして生きていく。
小説を書くことは、実人生の他に、二つ目の人生をたぐり寄せる貪欲な生き方なのかもしれない、と思う。
某月某日
「わたし」というのは、「存在しない」のではないかと、ふと考えた。というのは、「わたし」は「老いる」のではなく、「存在しない」のだから、ずっと一貫していて、青年の頃から、「非在」のままで、「傍観するもの」としてあるだけではないか。「実体」は、結局老いていく「身体」を見つづけているだけの「存在」なのではないだろうか。「存在しない」わたしが「存在する」ということの自己矛盾そのものが、「わたし」ではないかということを、ふと考えた。
某月某日
「他力本願」とは、大いなるものに己をゆだねるといった自覚を意味するらしい。「悪人正機説」にいう「悪人」とは、一切のものを喰って生きている己に、罪を自覚することによって、成仏できるということのようである。いろいろな生き物を殺生して、そのことによって生きている己の自覚、すなわち「悪人」の自覚、ということのようである。
「他力本願」と「悪人正機説」は、同じことの裏表のようにも思える。大いなるものに己をゆだねるという自覚こそが、自己を内面的に「悪人」としてとらえる洞察力を内に含んでいるように思えるからである。
さあ、また殺生の因果な「日常」におりていくことにするか。
某月某日
昨年、作家宮本輝さんの一人選者の「北日本文学賞」に「春雷」で応募した。見事落選。珠玉の短編でないと候補にも残らないということだ。「傾向」と「対策」が必要か。あるいは過去の受賞作の作品集があるならば、覗いてみようか。小説修行のバーの高さを下げずに精進することにするか。
原稿用紙三十枚の小宇宙の新構築は容易なことではない。
某月某日
人は物語を求めて、それを作りながら生きていくという本質(存在様式)を、精神構造の中に組み込まれているような木がする。民話などに語られている物語の中に、あるいは歴史的、教訓的に語られる雑多な物語の中に、すでに個々の固有の物語の土壌が用意されていることを知っておく必要がありそうだ。
わたしが小説を書こうとするのも、そんな固有の物語を求めていることの証なのかもしれない。しかしわたしが自分で書いているつもりの物語は実は、すでに他者の眼によってなぞられている物語なのかもしれないのである。
自他の物語の分別を心せよ、ということになる。
玉木一兵
某月某日
二〇〇五年は「群像」を精読することに決めた。六十歳を期して、あらためて小説を書く初歩的なことを、修行として己に課してみたくなったということだ。六十の手習い。心を劇場にして生きていく。
小説を書くことは、実人生の他に、二つ目の人生をたぐり寄せる貪欲な生き方なのかもしれない、と思う。
某月某日
「わたし」というのは、「存在しない」のではないかと、ふと考えた。というのは、「わたし」は「老いる」のではなく、「存在しない」のだから、ずっと一貫していて、青年の頃から、「非在」のままで、「傍観するもの」としてあるだけではないか。「実体」は、結局老いていく「身体」を見つづけているだけの「存在」なのではないだろうか。「存在しない」わたしが「存在する」ということの自己矛盾そのものが、「わたし」ではないかということを、ふと考えた。
某月某日
「他力本願」とは、大いなるものに己をゆだねるといった自覚を意味するらしい。「悪人正機説」にいう「悪人」とは、一切のものを喰って生きている己に、罪を自覚することによって、成仏できるということのようである。いろいろな生き物を殺生して、そのことによって生きている己の自覚、すなわち「悪人」の自覚、ということのようである。
「他力本願」と「悪人正機説」は、同じことの裏表のようにも思える。大いなるものに己をゆだねるという自覚こそが、自己を内面的に「悪人」としてとらえる洞察力を内に含んでいるように思えるからである。
さあ、また殺生の因果な「日常」におりていくことにするか。
某月某日
昨年、作家宮本輝さんの一人選者の「北日本文学賞」に「春雷」で応募した。見事落選。珠玉の短編でないと候補にも残らないということだ。「傾向」と「対策」が必要か。あるいは過去の受賞作の作品集があるならば、覗いてみようか。小説修行のバーの高さを下げずに精進することにするか。
原稿用紙三十枚の小宇宙の新構築は容易なことではない。
某月某日
人は物語を求めて、それを作りながら生きていくという本質(存在様式)を、精神構造の中に組み込まれているような木がする。民話などに語られている物語の中に、あるいは歴史的、教訓的に語られる雑多な物語の中に、すでに個々の固有の物語の土壌が用意されていることを知っておく必要がありそうだ。
わたしが小説を書こうとするのも、そんな固有の物語を求めていることの証なのかもしれない。しかしわたしが自分で書いているつもりの物語は実は、すでに他者の眼によってなぞられている物語なのかもしれないのである。
自他の物語の分別を心せよ、ということになる。
Posted by 沖縄エッセイスト・クラブ会員 at 00:00
│会報がじまん