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2005年05月05日

がじまん第77号

強迫観念
大城盛光

 幼少期のころである。隣にタウチー(シャモ)を飼っている家があった。そのタウチーが、ときたま、首を高く伸ばし、目玉をぎょろつかせて、のっしのっしと屋敷の外を出歩くことがあった。子供を見つけると、すばやく寄ってきて上から後頭部やうなじを強力に突くのであった。筆者も幾度か追い回され、泣きながら逃げ回った記憶が鮮明に残っている。大人が来ると逃げ帰るのだが、どういうわけが、子供を見つけると、どこまでも追ってきて突いて攻撃してくるのであった。頭の上から襲ってくるので、防ぎようがない。全く怖い存在であった。その屋敷のあたりは通らないように心掛けていたが、そこを通らなければならないときは、恐怖感でいっぱいであった。隣家であったので、何時、どこから不意に現れてくるか、恐れおののく思いであった。
 そのおびえは、後年、犬に噛み付かれた後の恐怖に似ていた。少年のころ、知人の家を訪ねたときのこと。屋敷に入り、玄関に近づくや、前触れもなく番犬が現れ、だしぬけに臀部を噛み付かれたのである。「吠える犬は噛まぬ。」というが、吠えない犬の怖さを実感した瞬間であった。生肌に歯を立てられた激痛はひどかった。うっ血した臀部の痛みが数日も続いた。それ以後、吠えない犬に出会う度に恐怖感が先立って、臀部に痛さの意識が走るのを覚えるのであった。そのおびえの感覚は、現在までも癒えることなく尾を引いている。
 教職を退いて十年になる。退職したときは、言いようもなく心地よい開放感に浸っていた。退職した翌日などは、家の前に広がる山々は庭の木々さえも潤い、新鮮な色合いをおびて見えるのであった。ところが、しばらく経って、奇妙な夢に心浮かぬことになった。
 授業のど忘れの夢である。授業のあるのを全く忘れてしまい、気づいて教室に駆け込むと、受講する学生が教室から気ままに散ってしまっているところで覚めて自ら不快になる、というたわいもない夢見である。その夢が一度や二度であれば、忘れ去らせることだが、十年間、度々ほぼ同じ夢を見るので、その夢の奇妙な心象にこだわらざるとえなくなった。
 学校という職場は、ほぼ一時間単位で運営されていく仕組みになっているので、その規範に則って仕事をせざるを得ない。その時間単位が次第に意識下に叩き込まれて、プレッシャーとなって、日々の行動が律せられていたのであろう。その規範意識の強迫観念が、後年、授業を忘れて慌てふためく、という夢になって現れるのであろうか。フロイト心理学の夢解きではどうなるのかは分からぬが、緊張感から解き放たれたい、しかし、逃げられなかったジレンマが、後年、きてれつな夢となって現れるのだろうか。

 それにしても、タウチー、犬へのおびえ、時間による強迫観念が、人を突き動かす力になるとは異様だ。


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