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2005年10月15日

がじまん第87号

望月にゆらゆら
具志堅康子

 猛暑と相まって台風が近づく。ぐずつく空模様を気にしていると、沖縄本島を避けて通り過ぎた。降る雨に心を和ませ、世事を忘れて独り遊びをするのが好きな私だが、台風情報にはさすがにうんざり。
 やっと抜け出した久し振りのすかっとした晴天は、真夏を呼び戻す。残暑に樹々はさんざめき、樹液は匂いを放つ。まだまだ沖縄の夏は長い。
 だが、風の便りでサシバの渡りはじめたのを知る。照り返す道路に桜の黄葉が舞い散る。季節(とき)もチャンプルーが好きなのだ。と生活線上の感性に微苦笑。〈石より白し秋の風〉を口ずさみながら、欲ばりな私は秋を呼ぶ。心なしか朝夕のかすかな気配に行く夏を感じる。殊に、青空の片れ雲がふんわり白く浮かび、流れる情景に――。
 夜空といえば、仲秋の名月。その「仲秋の名月」の言葉に暦をめくる。なんと九月十八日=旧八月十五日。敬老の日の前日だ。十五夜を暦だけに背負わせるのもいただけないのではと、手さぐりでお月見の準備をと思案する。やはりウチナーンチュは「フチャギ」にかぎる、と独り合点。
 十五夜の日は、青切りみかん、巨峰の果物に、朱塗りの盆にフチャギを盛り供え、薄(すすき)、りんどう、萩を壺に活ける。
 月を賞でながら、つくねんと座すと夢走る。目裏に浮かぶあれこれ過去の引き出しを開けてのぞく。それもつかの間、テレビの音、車の音、隣家の声……等で邪魔される。無念無想の境地になれぬ私、せめて寂とした宵闇の中で、心の鎧を脱いで月を賞でたいのに……。
 中天の月も那覇の街中を反映してか、何かしら賑々しい感じの月の面である。寂寥とした深山の月を賞でたい思いにかられる。
 月に魅せられた中国の詩人・李白は、湖面に舟を浮かべて酒盛りをし、酒酔のあまり湖面に映った月と抱擁しようとして、溺れ死んだ。それこそ詩人冥利につきる逸話がある。
 そこで雅趣ある月の詠歌を拾いあげると、古典文学作品の秀歌に目がいく。はて、琉歌はどうだろうと思い出したのが次の二首。

   タヌムユヤフキティウトゥヅィリンネラン
   たのむ夜やふけておとづれもないらぬ
      フィチャイヤマヌファヌツィチニンカティ
      一人山の端の月に向かて  (よしやチルー)

   クファディサヌウツィチマドゥドゥティユル
   こはでさのお月まどまどど照ゆる
      ユスミマドゥハカティシヌディイモリ
      よそ目まどはかて忍でいまうれ     (読人知らず)

 二首ともに口ずさんでいると、華やぐ場にいても孤独に耐えている女心の微妙な揺れを感じる。月影が胸の奥底まで差しこんだせいか、感傷癖に落ちこんでいる。月に誘われて揺らゆら……。
 年を重ねることは、振り向くことも多くなる。感傷もほどほどに自省せねば――。往時茫々の体、おだやかに心の綾織りをしよう。
 それにしても現人(いま)は月を無機質なものにとらえ、ロケットを組み合わせ、超ロマンの風貌を活写するのであろう。
 老境の身は、時代におもねるのがいいだろうが、やはりゆったりと心ゆくまで、自分の時を過ごしたいものだ。
 いやはや、良寛さんの歌にもどりましょう。

   風は清し月はさやけしいざ共に
      踊り明かさむ老いの名残りに    (良寛)


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