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2005年11月05日

がじまん第88号

「岸壁の母」の如くに
石川亀一

 親の死に目に会えない子は親不孝者と言われるが、私は両親とも死に顔を見ていない。
 父親はサイパン戦の避難中に生き別れたまま生死不明。戦死したに違いないが、何時どこで死んだのか、命日すら分からない。
 母親は大学一年の夏に他界した。戦後間もない頃で、留学生として本土に送り出されて四ヶ月もしないうちに病死したのだが、母の死を知ったのはその年の暮れ近くだった。皮肉にも友人からのお悔やみの手紙で知ったのだった。唐突な訃報に、下宿していた源正寺というお寺の裏庭で、ひっそりと母を偲んで涙した思い出がある。
 親戚が示し合わせて、留学したばかりの私を悲しませまいとの気遣いから、母の死を伏せていたのだった。知らせても当時は沖縄と本土を結ぶ航空便はおろか定期の船便もなかったので、すぐに帰省することもできなかった。結局、翌年の春休みに帰省して、仏壇に納まった母との対面が、やっと叶えられたのだった。

 私たち一家は昭和十九年六月のサイパン戦に遭遇した。戦乱の中で一家はばらばらになり、母と姉、妹の三名は先に捕まって抑留所に収容されていた。抑留所のゲートの傍らには、山中の掃討戦で捕らえられて来る人たちが、収容前のチェックを受けたり、頭にDDTを撒かれたりする広場があった。そこは有刺鉄線越しによく見えるので、生死の分からない身内や親戚の生還を待ちわびる人たちが、いつも群がっていたという。その群衆の中に母の姿もあったのだ。
 しかし、半年近くも生死不明の父と私は、ほとんど絶望視されていた。その頃になると投降してくる人もまばらになり、ゲート前で待つ人も少なくなっていたという。
 だが、わが母はもしや、もしやに引き裂かれてあの「岸壁の母」まがいにゲート通いを日課にしていた。夫と息子を待ちわびながら、空しく暮れる傷心の日々を送っていたのであろう。

 そんなある日、数少なくなった投降者の中に、諦めかけていたわが子を見つけたときの母の胸中はどうだったのだろうか。山中で十三歳の誕生日を迎えたばかりの少年は、再会の場面をあまり憶えていないのだが、抑留所での最初の夜、ふと目覚めると、私の頭をそっと撫でている母の手があった。今にして思えば、わが子の無事を確かめながら、再会の喜びを噛みしめていたのだろう。あの母の手の優しい感触は、しっかりと憶えている。
 夫もサイパンのどこかに生きていて、いつかひょっこり帰ってくるだろうと、母は一縷の望みを捨ててはいなかった。死ぬまで母の心は「岸壁の妻」を演じて待ち続けていたように思う。
 両親とも享年五十一歳であった。


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