2006年02月01日
がじまん第94号
天日浴のあった日々
記憶をたぐりよせる技法としての無季俳句修行。どこかで誰かが言っていそうな表現。その証明に、昨年一年かけて、自分史を俳句で彫る作業をつづけてきたが、埋もれた記憶を、五・七・五の言葉のナイフで切り取ってきて、彫琢する技は、目下一段落といった処。
ひきつづき今年も、記憶の海(闇)から、一匹(一句)ずつ、釣り上げるとするか。己の記憶の闇の中には、生きられなかった(あるいは生きられた)己の心の断片が、まだ手つかずのまま、放置されている筈だ。掘れば出てくる宝物。以下に釣果の一端をご賞味いただければ光栄です。
私の故郷は本部町の浦崎である。かつては、うるわしき山河があった。瞼を閉じると発展の陰に失われていった数々の光景が蘇る。
本部富士・御願杜・アサギ腰当(クサティ)なす
小さな霊峰本部富士は今でも健在であるが、その裾野に広がっていた天然の小宇宙はかき消えてしまった。腰当の位置には本部グリーンのゴルフ場とホテル。浜元小学校跡には町立体育館の雄姿が、ムラ内を見下ろしている。
湧水と田圃の畔とバッタ獲り
幼少年期。クンジャ川の水辺に遊び、稲穂の垂れる畔でバッタを追いかけ、草の茎に刺して意気揚々と家路に着いた頃。自然の摂理が身近にあった。他方、終戦直後のモノのない時代であった。いつも腹をすかしてムラ内をほっつき歩いていた。
屑芋を狙いてそろり他家の門
両親が教師で、八名兄弟の末子風勢のわたしは、無い知恵をはたいて、優しい婆々のいる親戚の門を嗅ぎわけて、闖入した。
手の甲の婆々の針刺(ハジチ)の弛みたり
婆々の、苦労の皺の刻まれた手の甲の模様。その弛みをひっぱって戯れた。婆々はなすがままに微笑んでいた。
朱夏樹陰小さき身浸す盥(たらい)舟
当時すでに、那覇に移り住んでいたわたしが、夏休みにやってくると、木の陰に盥を置いて天日浴をさせてくれた。
こんな風に、故郷を離れていった人々にとって、望郷の念は純粋な原画として刷りこまれている。
玉木一兵
記憶をたぐりよせる技法としての無季俳句修行。どこかで誰かが言っていそうな表現。その証明に、昨年一年かけて、自分史を俳句で彫る作業をつづけてきたが、埋もれた記憶を、五・七・五の言葉のナイフで切り取ってきて、彫琢する技は、目下一段落といった処。
ひきつづき今年も、記憶の海(闇)から、一匹(一句)ずつ、釣り上げるとするか。己の記憶の闇の中には、生きられなかった(あるいは生きられた)己の心の断片が、まだ手つかずのまま、放置されている筈だ。掘れば出てくる宝物。以下に釣果の一端をご賞味いただければ光栄です。
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私の故郷は本部町の浦崎である。かつては、うるわしき山河があった。瞼を閉じると発展の陰に失われていった数々の光景が蘇る。
本部富士・御願杜・アサギ腰当(クサティ)なす
小さな霊峰本部富士は今でも健在であるが、その裾野に広がっていた天然の小宇宙はかき消えてしまった。腰当の位置には本部グリーンのゴルフ場とホテル。浜元小学校跡には町立体育館の雄姿が、ムラ内を見下ろしている。
湧水と田圃の畔とバッタ獲り
幼少年期。クンジャ川の水辺に遊び、稲穂の垂れる畔でバッタを追いかけ、草の茎に刺して意気揚々と家路に着いた頃。自然の摂理が身近にあった。他方、終戦直後のモノのない時代であった。いつも腹をすかしてムラ内をほっつき歩いていた。
屑芋を狙いてそろり他家の門
両親が教師で、八名兄弟の末子風勢のわたしは、無い知恵をはたいて、優しい婆々のいる親戚の門を嗅ぎわけて、闖入した。
手の甲の婆々の針刺(ハジチ)の弛みたり
婆々の、苦労の皺の刻まれた手の甲の模様。その弛みをひっぱって戯れた。婆々はなすがままに微笑んでいた。
朱夏樹陰小さき身浸す盥(たらい)舟
当時すでに、那覇に移り住んでいたわたしが、夏休みにやってくると、木の陰に盥を置いて天日浴をさせてくれた。
こんな風に、故郷を離れていった人々にとって、望郷の念は純粋な原画として刷りこまれている。
Posted by 沖縄エッセイスト・クラブ会員 at 00:00
│会報がじまん