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2006年05月15日

がじまん第101号

夢 花火
具志堅康子

 人々の思索や感性が時代とともに降り積もった場所、それが「本」であろう。
 紙と活字のインクの集合体で無機質なものだが、人が手にすることによって変容する。一種不可思議な世界に誘い込むのが「本」である。読書するということは、一見無駄な暇つぶしの様に思われがちだが、人それぞれの貴重な時間へ惜しみなく潤いを与える。
 本は内容によって矛盾や錯覚や脆さをひっくるめて味わわなければならない。そこに実生活を離れた夢想の世界に遊ぶことも可能である。読書の効用云々はさておいて、加齢のもたらす想像力を自由に浮遊させてくれる。読書から得たものは、少なくとも生きてきた時間帯の奥に豊潤なものとしてぎっしり詰まっているだろうから。
 昨今の私の思いがある。
 まあ、せめて二十畳くらいの細長い部屋の横壁一面を本棚にして、すべての本の背文字が読めるように置き並べたい。というのは現在、本を本棚に二重、三重に押し込み、また積み重ねてあるので、調べたい本を探すのに時間がかかる。三ヶ所の部屋の本棚に大ざっぱに、古典、小説(作家別)、哲学書、エッセイ集、詩集、その他と分類はしてあるが、すぐ取り出すことが出来ず困る。収集癖のもたらす弊害が禍いしている。それでも退職時に、学生時代からの雑誌(新日本文学、近代文学、詩学)は、処分させられた。床が抜け落ちる、ゴミの山では困るとさんざん叱られやむなく廃棄した。往時(一九五〇年代)この赤旗系の「新日本」の雑誌は個人では手に入らないので、球陽堂書房が書籍購入の際にLCを組む。その時T氏にこっそり入手してもらったものであった。数ヵ月して手にする雑誌は新鮮味に欠ける。だが、文学作品が読めることで無性に嬉かった。殊にアラゴンの「起床ラッパ」の詩は、私の胸に勇ましく鳴り響いている。エリュアールの〈勝利ということばに、おお……朝はなかなか姿をあらわさなかった/だがすでに朝はそこにある〉詩に心酔し、青春の血はたぎり、そして活動源となっていた。あちこちに散見される書き込みは、セメントで固めたような語群が稚拙な主義を響かせている。エリュアールの詩句の焼き直しのようだ。若気が漂う夢花火が散りゆく。
 時間の堆積が人生に与える陰影の濃さを感知する。昨日と今日との間にすっぽりあいた時間(とき)に佇む。
 書籍類は拝みとおして処分せず現在に到っているものだが、処分すべきか思案にくれている。多読、熟読、積ん読してきた五十余年。これからも日がな一日、本の中にもぐり込み、他者の生き方と重ねて夢想の悦楽の中で時を過ごそう。甘い老後は容易に崩れるだろうが―。
 「吾有時」、道元のことばである。―自分だけの時間を人は生きねばならない―。
 やはり、これからの余生を堪能するには、外部の時間に合わせていては得られまい。


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