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2006年09月01日

がじまん第108号

津嘉山司令部壕と兄
謝花秀子

 二〇〇六年七月十二目の沖縄タイムス紙の記事と写真に衝撃を受けた。
「姿現す第32軍司令部壕」の見出しで、南風原町の津嘉山にあったと聞いていた壕が国道延伸工事の事前調査発掘で発見されたというのである。
 記事によると、津嘉山の司令部壕は一九四四年夏から、沖縄守備軍である第三二軍司令部壕として、高津嘉山からチカシモーにかけて掘られ、本線壕と枝壕の総延長は二キロ、手掘りの壕として、県内最大規模という。
 三二軍は、ここの土質や地形的な悪条件のため、首里城地下に司令部壕を築き、作戦を指揮したと推測され、津嘉山の壕は十十空襲を契機に放棄。
 兵たん部隊として経理・軍医・法務・兵器などが残され、兵隊や軍属など約三千人がいたが、四五年五月末ごろに撤退したという。壕からは銃弾や医薬品、軍靴や生活用具などさまざまな物が出土しているという。
 三人の兄のうち、次兄が防衛隊員として従軍、戦死して「平和の礎」に刻名されている。その兄が戦死したことを両親がよく話していた。
那覇の歯科医院で技工士をしていた次兄は防衛隊員として召集され、壕割りやその他軍務に従事していたことと思われる。時間的な前後はわからないが、津嘉山あたりの十字路で兄に出会った人がいて行く先を尋ねたら、
「司令部ヌ 壕カイサイ(司令部の壕に行きます)」と答えていたという。この人がどなたなのか名前など父母が他界した今は知る術がない。
 十十空襲の後、北部に避難したという私の家族は、両親と兄姉二人と母に背負われた私の五人。着のみ着のままで家を出た家族、家財道具だけが残った泉崎の家に次兄は帰ってきたらしい。
「ワッター ヤーヤ ムルアラサットウタッサーサイ(私の家は全部荒らされていましたよ)」と言っていた兄に会った人がいて、戦後父母に話してくれたという。
 昭和二年生まれの次兄は存命していたら七十九歳、三歳だった私は兄を覚えていない。小学校の卒業写真に丸刈り頭で眩しげな顔で写っているのが、唯一私の知る兄であり、戦後六十一年たって兄が働いていた壕が見つかったということは、大きな驚きと感動で胸がいっぱいである。
 今度見つかった司令部壕は三十メートル程で、重傷患者が寝かされていた所といい、まだ先の方からはもっと遺物が出てくると、看護や雑役に当たったという元ひめゆり学徒隊の宮城喜久子さんは話されている。
 沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会は、戦跡の文化財としてこの司令部壕の保存を行政に働き掛けていくという。今回発掘された壕跡が埋め戻されても、残りの部分が発掘されて保存されるなら沖縄戦の証言者として死者の供養にもなり、遺族の大きな慰めにもなろう。


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