てぃーだブログ › 沖縄エッセイスト・クラブ › 会報がじまん › がじまん第109号

2006年09月15日

がじまん第109号

薔薇の台
玉木一兵

 二〇〇六年八月十五日、終戦記念日に日を合わせたかのように、姉は七十五歳の生涯を閉じた。蘇生器につながれ生命の火種を護られつづけて生きた三年三ヶ月だった。進行性の難病故に、脳の石化を止めることはかなわなかった。
 この三年有余の歳月は、義兄にとって、長い長い「別れの期」でもあったと思う。弟のひとりとして、鼻腔栄養をおくりつづけることの「惨」と「酷」を言いつのったこともあったが、五十年連れ添った義兄の熱い「妻恋」の心情の前には、分別をやめて、頭を垂れるしかなかった。義兄は、三年有余、文字通り日参し、姉の傍らに在り続けた。

   青白の管が息する臨終の刻
   モニターの波形弛みし午後七時
   留袖を急ぎ持ち来て側に寄る

 六月二十四日、すなわち沖縄の慰霊の日の翌日が姉の誕生日であった。一九四五年三月、一高女の下級生で満十四歳に充たなかったために、あの「ひめゆり部隊」に編成されず「悲惨」に遭わなかったことが、少女期のトラウマとして、心情の底に影をおとしつづけ、生命の尊さを、三十五年余の教員生活の中で、語りつづけてきた感があった。誕生日が近づくと姉はそのことを思い出したに違いない。姉は生涯を通じて、多子家族の長女として、同胞は基より、親類縁者の「ウナイ神」然として、己を頼ってくる人々の心を傾聴し自分を律してきた人だった。
 家に戻って二晩の通夜を過ごした。手際よい葬儀屋の段取りに従って、いよいよ出棺の朝を迎えた。
 安国寺住職の凜とした読経が終ると、棺桶の蓋をかぶせる前に、義兄の出身のシマ、八重山の黒島のしきたりに習った、「お別れ」の儀式が執り行われた。
 血縁の者から順序よく、姉にいざり寄り合掌し義兄の差し出す一輪の花を受け取り、想い思いに「語りかけ」つつ顔の台(うてな)を飾りつけていくのである。私の番がきたので、いざり寄り真紅のバラ一輪を受け取って姉の額に右手を置き、その冷たさを受け止めつつ、左手で花を手向けた。
 臨終の日の未明、義兄の夢枕に顕(た)って手招いたという四人組、両親と同胞二人の生前の顔を思い出しながら、語りかけた。嗚咽を押し殺し言葉の末尾が崩れる縁者の多い中で、ひと際朗々たる声で語りかけ感極まって島唄を歌い上げたYさんがいた。

   人(ひとぅ)の大胴(うふどぅ)やかなさねぬ
   肝心(くぃむくくる)どうかなさる 
   肝心良く持(ゆーくむ)たばどう 世間や渡らり
   デンサー
   親子(うやふぁ)かいしゃー 弟(うとうとぅ)から
   家庭(きない)持(む)ちかいしゃー 嫁(ゆみ)の子から
   デンサー

 見舞いに行くと、所望されたので、その度に耳元で唄ってあげたという。
 私は一人の子を育てるのに苦労したのに、あんたは良く三人の子供を育てあげたね、と褒めてもらったという。

   仲道路(なかどうみぃち)から七けーら通(かよ)うけ
   仲筋かなしゃーま相談ぬならぬ
   ンジーシヌカヌシャーマヨー
   紺染(くんずみ)や藍しどぅ染(すみ)る
   かなしゃーとぅ我んとぅや肝しどぅ染(すみ)る

 Yさんの潮涸れた寂(さび)のきいた唄声が、皆の胸に切々と届いた。その余韻の中で、近親の四人の男の手で、花の台(うてな)に包まれた姉の上に、棺桶の蓋がかぶせられたのであった。

   島唄と薔薇の台(うてな)に包まれて


タグ :玉木一兵

同じカテゴリー(会報がじまん)の記事

Posted by 沖縄エッセイスト・クラブ会員 at 00:00 │会報がじまん