2006年10月16日
がじまん第111号
ある墓碑銘
私とは全く縁もゆかりもないのだが、是非もう一度訪ねたい墓が横浜外人墓地にあった。二十年以上も昔、その墓に刻まれた碑文を読んで感動し、もう一度見たいと思ったのである。実はこの間幾度も墓地を訪れたのだが、その度ごとに入口の門が閉ざされていたのである。部外者の立ち入りが禁止されたのかとも思ったが、試しに横浜市観光案内所に電話で問い合わせた。すると土曜と日曜、祝日のみ正午から午後四時まで開放されていると言う。
今年四月のある日曜日、開門時間に合わせて墓地を訪れた。天気も良く、花見にもまだ間に合うというためか、隣接する「港が見える丘公園」には行楽客が多数集まっていたが、墓地を訪れる人は少なかった。四千六百人の異国の人たちが眠る広大な墓地のどこに目的の墓があるのか、見当がつかなかった。当てずっぽうに、門を入って右の方に向かう小道を行って見た。百メートルほど歩いたところに、その墓はあった。どうしても見たいと思った碑文が、縦五十センチ、横七十センチほどの石に刻まれて立っていた。
ジョン・シコシここに眠る
数奇なる運命のもと
ハンガリーに生まれ 日本に死す
秀でたる素質とたゆまざる努力と
意志の人
与えることのみにて求めることのなかりし人
その碧き瞳 優しき声音
強き腕よ
ああわれ亡きあと此の稀なる人を
かくも切なく偲ぶ者のあらんや
糸 恵
石碑の前には、開いた本をかたどった、やはり石造りの小さい墓誌が置かれていた。墓誌の上段に「ジョン・シコシとイトエ・シコシの愛の思い出に」と書かれ、その下に二人の生年月日と死亡年月日が刻まれていた。それから分かることは、二人の年の差は二十二歳であり、ジョンが七十二歳で永眠した時、糸恵は五十歳だったこと、糸恵は二〇〇二年に八十三歳で亡くなっていることだけである。
墓地内の資料館にも入って調べてみたが、石碑と墓誌に書かれていること以外は何も分からなかった。二人の出会いも、容姿も、人柄も、生活も、仕事や業績のことも何もかも分らないのに、二十年以上にわたって、二人のことが私の頭を離れないのは、偏えに墓碑銘の文章が私の胸を打つからである。二人とも既にこの世にいないが、二人の強い愛は碑文の中に今も生きつづけており、これからもこの詩を読む人々に、二人の愛を切なく偲ばせることだろう。
中山勲
私とは全く縁もゆかりもないのだが、是非もう一度訪ねたい墓が横浜外人墓地にあった。二十年以上も昔、その墓に刻まれた碑文を読んで感動し、もう一度見たいと思ったのである。実はこの間幾度も墓地を訪れたのだが、その度ごとに入口の門が閉ざされていたのである。部外者の立ち入りが禁止されたのかとも思ったが、試しに横浜市観光案内所に電話で問い合わせた。すると土曜と日曜、祝日のみ正午から午後四時まで開放されていると言う。
今年四月のある日曜日、開門時間に合わせて墓地を訪れた。天気も良く、花見にもまだ間に合うというためか、隣接する「港が見える丘公園」には行楽客が多数集まっていたが、墓地を訪れる人は少なかった。四千六百人の異国の人たちが眠る広大な墓地のどこに目的の墓があるのか、見当がつかなかった。当てずっぽうに、門を入って右の方に向かう小道を行って見た。百メートルほど歩いたところに、その墓はあった。どうしても見たいと思った碑文が、縦五十センチ、横七十センチほどの石に刻まれて立っていた。
ジョン・シコシここに眠る
数奇なる運命のもと
ハンガリーに生まれ 日本に死す
秀でたる素質とたゆまざる努力と
意志の人
与えることのみにて求めることのなかりし人
その碧き瞳 優しき声音
強き腕よ
ああわれ亡きあと此の稀なる人を
かくも切なく偲ぶ者のあらんや
糸 恵
石碑の前には、開いた本をかたどった、やはり石造りの小さい墓誌が置かれていた。墓誌の上段に「ジョン・シコシとイトエ・シコシの愛の思い出に」と書かれ、その下に二人の生年月日と死亡年月日が刻まれていた。それから分かることは、二人の年の差は二十二歳であり、ジョンが七十二歳で永眠した時、糸恵は五十歳だったこと、糸恵は二〇〇二年に八十三歳で亡くなっていることだけである。
墓地内の資料館にも入って調べてみたが、石碑と墓誌に書かれていること以外は何も分からなかった。二人の出会いも、容姿も、人柄も、生活も、仕事や業績のことも何もかも分らないのに、二十年以上にわたって、二人のことが私の頭を離れないのは、偏えに墓碑銘の文章が私の胸を打つからである。二人とも既にこの世にいないが、二人の強い愛は碑文の中に今も生きつづけており、これからもこの詩を読む人々に、二人の愛を切なく偲ばせることだろう。
Posted by 沖縄エッセイスト・クラブ会員 at 00:00
│会報がじまん