2007年12月01日
がじまん第139号
一枚の写真から
坊主頭にくたびれた上着と半ズボン姿の少年は唇をかみしめて、裸足のまま直立不動の姿勢で立っていた。背にはだらりと仰け反るようになった一、二歳の幼児をおぶっていた。終戦直後の長崎で米軍の従軍カメラマンが写した一枚の写真であった。十二歳くらいの少年だったという。原爆投下から一、二ヶ月後の記録である。
一見何の変哲もないスナップ写真のように思えた。その頃の日本では子沢山で十歳以上も歳の開いた弟妹を持つ兄弟は多かった。放課後忙しい母親に代わって弟妹の子守をさせられる子はよく見かけたものだ。幼い弟をおぶったまま鬼ごっこで駆け回り幼児が泣きだしたら野良仕事の母親のもとに連れて行って乳をあてがったり、おむつを替えたりしていた。ごくありふれた微笑ましいスナップ写真のように思えた。
ところがカメラマンの添え書きを見てショックを受けた。少年がおぶっていたのは死んだ弟の遺体だったのだ。原爆の後遺症でぞろぞろと死んでいく人たちのための簡易火葬場の前で、火葬の順番を待っている光景だというのだ。その後少年は目の前で弟が火にくべられて焼かれていくのをじっと立ち尽くして見ていたという。カメラマンは何か慰めの言葉をかけてやりたかったが、少年がその場に泣き崩れてしまいそうに思えたので、そっとしておいたという。原爆で一家が被爆して二人だけが生き残ったのだろうか。弟は原爆症で死んだのか飢え死にしたのかも知る由もない。カメラマンはその後何度も日本に来ては少年の消息を尋ねたが、結局名乗り出る人はいなかったという。少年も原爆症で亡くなったのだろうか。
カメラマンは米テネシー州出身のジョー・オダネルという海兵隊員で、原爆投下後の日本の実情を記録する目的で占領軍の一員として派遣されたという。戦後はホワイトハウス付きのカメラマンとして、歴代の大統領の写真を撮るほど著名なカメラマンであったらしい。彼自身も広島や長崎で浴びた残留放射能による健康被害で苦しい闘病生活を送りながら、核兵器の悲惨さを訴える写真展の開催に合わせて来日したこともあったという。今年八月十日テネシーで脳卒中のため八十五歳で他界されたという訃報が沖縄タイムス紙に載っていた。
平成十八年八月「原爆の夏、遠い日の少年」というタイトルで衛星放送から例の写真の少年のことが放映された。その中でカメラマンの郷里で開かれた彼の写真展の光景が流されていた。展覧会場で、二歳ぐらいのわが子を抱いてのんびりと観覧していた若い婦人が、その少年の前でぴたりと釘付けになっていた。やがてあふれ出る涙を如何ともしがたく立ち尽くしていた。抱かれた坊やは怪訝そうに見上げて、「ママ、悲しいの?」と聞く。「このお兄ちゃんはもっと悲しいのよ」と、喉を詰まらせていた。
いかなる反戦反核の文章も、この一葉の写真に優るものはないように思う。
石川亀一
坊主頭にくたびれた上着と半ズボン姿の少年は唇をかみしめて、裸足のまま直立不動の姿勢で立っていた。背にはだらりと仰け反るようになった一、二歳の幼児をおぶっていた。終戦直後の長崎で米軍の従軍カメラマンが写した一枚の写真であった。十二歳くらいの少年だったという。原爆投下から一、二ヶ月後の記録である。
一見何の変哲もないスナップ写真のように思えた。その頃の日本では子沢山で十歳以上も歳の開いた弟妹を持つ兄弟は多かった。放課後忙しい母親に代わって弟妹の子守をさせられる子はよく見かけたものだ。幼い弟をおぶったまま鬼ごっこで駆け回り幼児が泣きだしたら野良仕事の母親のもとに連れて行って乳をあてがったり、おむつを替えたりしていた。ごくありふれた微笑ましいスナップ写真のように思えた。
ところがカメラマンの添え書きを見てショックを受けた。少年がおぶっていたのは死んだ弟の遺体だったのだ。原爆の後遺症でぞろぞろと死んでいく人たちのための簡易火葬場の前で、火葬の順番を待っている光景だというのだ。その後少年は目の前で弟が火にくべられて焼かれていくのをじっと立ち尽くして見ていたという。カメラマンは何か慰めの言葉をかけてやりたかったが、少年がその場に泣き崩れてしまいそうに思えたので、そっとしておいたという。原爆で一家が被爆して二人だけが生き残ったのだろうか。弟は原爆症で死んだのか飢え死にしたのかも知る由もない。カメラマンはその後何度も日本に来ては少年の消息を尋ねたが、結局名乗り出る人はいなかったという。少年も原爆症で亡くなったのだろうか。
カメラマンは米テネシー州出身のジョー・オダネルという海兵隊員で、原爆投下後の日本の実情を記録する目的で占領軍の一員として派遣されたという。戦後はホワイトハウス付きのカメラマンとして、歴代の大統領の写真を撮るほど著名なカメラマンであったらしい。彼自身も広島や長崎で浴びた残留放射能による健康被害で苦しい闘病生活を送りながら、核兵器の悲惨さを訴える写真展の開催に合わせて来日したこともあったという。今年八月十日テネシーで脳卒中のため八十五歳で他界されたという訃報が沖縄タイムス紙に載っていた。
平成十八年八月「原爆の夏、遠い日の少年」というタイトルで衛星放送から例の写真の少年のことが放映された。その中でカメラマンの郷里で開かれた彼の写真展の光景が流されていた。展覧会場で、二歳ぐらいのわが子を抱いてのんびりと観覧していた若い婦人が、その少年の前でぴたりと釘付けになっていた。やがてあふれ出る涙を如何ともしがたく立ち尽くしていた。抱かれた坊やは怪訝そうに見上げて、「ママ、悲しいの?」と聞く。「このお兄ちゃんはもっと悲しいのよ」と、喉を詰まらせていた。
いかなる反戦反核の文章も、この一葉の写真に優るものはないように思う。
Posted by 沖縄エッセイスト・クラブ会員 at 00:00
│会報がじまん