2008年09月15日
がじまん第152号
夏の街のパフォーマンス
久茂地川沿いに黒いパラソルがゆれている。三つ、四つ。遠くに白い日傘。葬列かと思いきや、なんと最新情報をうのみにした趣向の装いなのだそうだ。モノレールがパラソルの列を追い越して消えた。
ゆくりなく目をやったのは、那覇市役所前の大きなガジマル。年輪を重ねた枝を張った樹が濃い陰をおとしている。その下に佇むといい知れない心地よさを味わう。涼風のよさを耳にしていると、飛び石伝いに世相を渡ってきたことを、現在(いま)どのようにかみしめ、とらえたらよいのか、と。またまた逡巡することに唖然としている。
そこへ追い被さるようにパラソルが私を斜めにさえぎる。車のひしめきと横断歩道の人波に圧倒される。
群青色の空に白い大きな積乱雲がむっくり むっくりたちあがる。うりずんの雨に微笑んだ紫陽花の花房はまさに額縁入りとなり、沖縄の夏は駆け足で猛暑を呼ぶ。
歩道に視線をやると、太陽に魅せられたこましゃくれた少女たちが、両肌(もろはだ)姿に救求マークを貼りつけ歩く。そこへ筋力があるのか、ないのか青年の脚がまたぎ渡る。時代(とき)を共有しアバンチュールを楽しんでいる。赤毛色の頭髪に反射する脱ぎ捨てた感性と思考。それを蹴散らす夏場の若者よ。真っ赤に燃えるとよい。
白い風の吹く街中に群がるパラソルのオンパレード。人の輝きは持ち物に左右されるものではなかろう。高価な持ち物で品位が決まるものでもないと思う。好の味の品をそれなりに身につけて、自分らしさを表しているのは、日常の生活感がにじみ出ていてよい。
単々として差し歩く日傘なのに、何かしら人それぞれの妙技として映るのは楽しい。「日傘」のもたらす装いと「パラソル」の言葉の響きのイメージでちょっとした情趣がかもし出されるのもよい。
白に、花柄に、猫柄のパラソルが足早に過ぎると青春が匂う。脈々と生の喜びを先取り響かせる青色が頭上をかすめ通る。ぬったり くったりグレーの足取りに苦渋の老境の音色を聞く。品よく漂うラベンダーのレースの夢色顔は大正ロマンのアンチックもの。黒いパラソルが颯爽とUVカットと夏色をときめかして軽く振りまく。生活の充実感そのものを活きいきと溢れさせてゆくのもよい。
沿道の夾竹桃の紅色が染める夏盛り。かつての風景をとりまいて過ぎてゆく影をやどす。
記憶の落葉の語り草。
首里の城下町に何処からともなく三線の奏でる音。ほのかに夕日が射している。ひたひたと石畳の坂道を紺傘(エーガサ)を手にしたウシンチー姿に、ウチナーカラジの琉装の優艶な女の姿。遠いセピア色の写真が一葉はらりと舞いおりる。過ぎゆく時代(とき)への陶酔が言霊(ことだま)となって背にはりつく。
今日も白い沖縄の夏場にパラソルが泳ぐ。
具志堅康子
久茂地川沿いに黒いパラソルがゆれている。三つ、四つ。遠くに白い日傘。葬列かと思いきや、なんと最新情報をうのみにした趣向の装いなのだそうだ。モノレールがパラソルの列を追い越して消えた。
ゆくりなく目をやったのは、那覇市役所前の大きなガジマル。年輪を重ねた枝を張った樹が濃い陰をおとしている。その下に佇むといい知れない心地よさを味わう。涼風のよさを耳にしていると、飛び石伝いに世相を渡ってきたことを、現在(いま)どのようにかみしめ、とらえたらよいのか、と。またまた逡巡することに唖然としている。
そこへ追い被さるようにパラソルが私を斜めにさえぎる。車のひしめきと横断歩道の人波に圧倒される。
群青色の空に白い大きな積乱雲がむっくり むっくりたちあがる。うりずんの雨に微笑んだ紫陽花の花房はまさに額縁入りとなり、沖縄の夏は駆け足で猛暑を呼ぶ。
歩道に視線をやると、太陽に魅せられたこましゃくれた少女たちが、両肌(もろはだ)姿に救求マークを貼りつけ歩く。そこへ筋力があるのか、ないのか青年の脚がまたぎ渡る。時代(とき)を共有しアバンチュールを楽しんでいる。赤毛色の頭髪に反射する脱ぎ捨てた感性と思考。それを蹴散らす夏場の若者よ。真っ赤に燃えるとよい。
白い風の吹く街中に群がるパラソルのオンパレード。人の輝きは持ち物に左右されるものではなかろう。高価な持ち物で品位が決まるものでもないと思う。好の味の品をそれなりに身につけて、自分らしさを表しているのは、日常の生活感がにじみ出ていてよい。
単々として差し歩く日傘なのに、何かしら人それぞれの妙技として映るのは楽しい。「日傘」のもたらす装いと「パラソル」の言葉の響きのイメージでちょっとした情趣がかもし出されるのもよい。
白に、花柄に、猫柄のパラソルが足早に過ぎると青春が匂う。脈々と生の喜びを先取り響かせる青色が頭上をかすめ通る。ぬったり くったりグレーの足取りに苦渋の老境の音色を聞く。品よく漂うラベンダーのレースの夢色顔は大正ロマンのアンチックもの。黒いパラソルが颯爽とUVカットと夏色をときめかして軽く振りまく。生活の充実感そのものを活きいきと溢れさせてゆくのもよい。
沿道の夾竹桃の紅色が染める夏盛り。かつての風景をとりまいて過ぎてゆく影をやどす。
記憶の落葉の語り草。
首里の城下町に何処からともなく三線の奏でる音。ほのかに夕日が射している。ひたひたと石畳の坂道を紺傘(エーガサ)を手にしたウシンチー姿に、ウチナーカラジの琉装の優艶な女の姿。遠いセピア色の写真が一葉はらりと舞いおりる。過ぎゆく時代(とき)への陶酔が言霊(ことだま)となって背にはりつく。
今日も白い沖縄の夏場にパラソルが泳ぐ。
Posted by 沖縄エッセイスト・クラブ会員 at 00:00
│会報がじまん