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2009年08月10日

がじまん第171号

李白の詩  絶句の一片より学ぶ
久田友明

 「李杜を師に朗人老師に松の蕊」の句は所属する俳句結社「天為」(有馬朗人主宰)誌に投句したものである。李杜は即ち詩仙李白と詩聖杜甫の二人の盛唐を代表する詩人であり中国文学史において、燦然と輝く二大巨星である。日頃から李白の詩を口遊んでいる。
 李白に阿倍仲麻呂(七〇一~七七〇)を詠じた七言絶句がある。原文は読みづらさもあると思うので訓読文を載せる。

   晁卿衡(ちょうけいこう)ヲ哭ス
   日本ノ晁卿帝都ヲ辞シ
   征(せい)帆(はん) 一片 蓬壷ヲ遶(めぐ)ル
   明月 帰ラズ 碧海ニ沈ミ
   白雲 愁色 蒼梧ニ満ツ

 右絶句をおおまかに述べると、晁卿衡阿倍仲麻呂を悲しむ、日本の晁卿は、唐の首都長安を去って、仲麻呂の船が嵐にあって沈んだらしいといううわさを聞いて作られたもの。李白(七〇一~七六二)仲麻呂と同世代、字(あざな)は太白。青蓮居士と号した。蜀(しょく)の人。
 仲麻呂についてやや精しくひもといてみる。仲麻呂は二十歳のとき遣唐使として吉備真備(きびのまきび)らとともに唐にわたった。唐では大学に学んで進士(昔の官史登用試験合格者)となり朝廷の役人となった。五十三歳の時、帰国しようと船に乗り「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌を作った。ところが船は暴風雨にあって安南に流され、たったふたりで逃げのびて再び長安にもどり、朝廷に仕えることになった。以後没するまで、ハノイ・安南などの節度使として勤めた。すでに述べたように、仲麻呂の中国名を晁卿と言った。仲麻呂は玄宗皇帝の寵(ちょう)をえて、李白、王維らと親交があった。在唐五十四年、帰国できぬまま唐土の土となった。
 「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の仲麻呂の一首は「古今集」の羇旅、四〇六に、和漢朗詠集、和歌二一六首の一首として秀抜されている。百人一首には、仲麻呂伝説の興味もあって、ひろく愛誦されたけたかく余情(よせい)かぎなき歌とされていた。


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