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2010年04月05日

がじまん第187号

三角(みすみ)港の銀世界                    
比嘉美智子

 今年は、第二次世界大戦敗戦後、六十五年目の節目にあたるという。思えば、一九三五年生れの私は、その節目節目が解りやすいように思われる。敗戦の年は一九四五年で、十歳。その前年の十月十日が那覇大空襲、いわゆる十・十空襲である。
 十・十空襲の、その一日の出来事は、朝から晩まで鮮明に記憶に残っている。朝、敵機来襲。機関銃射撃、B29の飛来による爆弾投下、防空壕に待避した。しかしながら、ここでは危険だと移った先が、ご先祖様の亀甲墓。丘の上の見晴らしのよい所だったので、まるで、地獄絵図でも眺めるように呆然と見つめていた。また、私達のお墓の庭に、負傷兵が一人連れて来られたので、その包帯の白さと、血の色、血の臭いも、初めての体験として私の五感に焼きついている。
 那覇の若狭町から首里の石嶺へ。そこで、豚小屋が便所でもある事を知った。トイレットペーパーがわりの「ゆうな」の木の葉もよく覚えている。その後は、確か中城へ逃げ、洞窟に避難した。沖縄にいてはとても助からないというわけで、疎開する事になった。
 一九四五年二月十五日、那覇港を出港、敵の魚雷を恐れ、東支那海を迂回し、やっと五日目に熊本県の三角(みすみ)港に入港した。疎開船の船底に蠢き合って潜んでいただけに、甲板に出て見た雪景色には、心の底から感動した。その冷気に身の引き締まる思いをし、生命が蘇えったことを実感した。
 船底で救命胴衣を枕に寝、撃たれたら海に飛び込めと教えられて甲板に並んだこともあった。胸と背中に救命具を縛りつけ、家族ひとりびとりが手を取り合っていた。沖縄の地上戦の始まる直前、最後の疎開船であった。
 三角港の埠頭で、真白な割烹着を着たご婦人の皆さんが「三角国防婦人会」と書かれた襷掛けで、私達のために御握りを配って下さった。本当においしい銀めしであった。
 それから六十年後、「島原・天草の旅」へ出かけた際、たまたま電車の乗り換えのため降り立ったのが三角駅であった。小さな腰掛けの一つひとつに座布団が結ばれていて、座布団の裏側に「三角婦人会」と白地に墨で書かれた布が縫い付けてあった。すぐに私は「三角国防婦人会」の襷を思い出した。国家を防衛するという「国防」の文字が消え、外敵の侵略への備えをせずともよいということが嬉しかった。
 しかしながら、六十年も前から現在に到るまで、三角の婦人の皆様方は、婦人会の活動を続けておられるのだと、その地域活動にあらためて感じ入った。そして、戦時中も現在も、旅人や通りすがりの人々の為に、温かい思いやりの心で接して下さっているのを知り、敗戦間近の国民学校三年生の頃の、忘れられない思い出が甦ってきたのだった。


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