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2010年09月05日

がじまん第197号

ヒト小舟と化す
玉木一兵

 浮いた。北谷の海で久しぶりに浮いた。大の字になって浮いていると、空から雨粒が矢になって落ちてきた。海面に突きだした顔に心地よい雨の殴打。八月七日の午後。低気圧のせいで雨雲が陽を千切りながら、どこかへ走っていく。職員たちは海辺の貸テントに屯し、バーベQに興じている。
 両足をそろえて、海面を軽く叩き、両手を櫂にしてゆっくりと下方にかく。浮いた身体がやわらかく前進していく。右手に海辺のノッポビルが見下ろしている。海に浮かんでいる人体はまばらだ。降りしきる雨脚が去って陽が戻ると、夏の青空が蘇る。
 浮く。ヒトは浮くのだ。海面に身体を投げ出して放置すれば、まるで木片のように浮くのだ。大の字になり、脚をそろえ、手を櫂にしてかけば、ヒトは小舟と化す。深呼吸し、胸を海面につきだすと浮力が生じ、ヒト小舟を持ち上げてくれる。
 海辺のノッポビルに足を向け、手の櫂で大きくひとかきふたかき、ヒト小舟を沖へやる。高層のビルの巨きさを足蹴にする度に、得も言われぬ快感が湧く。微小なる者の視界の優位を保って、ヒト小舟のままで漂っている。
 一天かき曇り、再び雨脚の矢玉に見舞われる。閉眼し顔面を打たれるがままに浮いている。太陽(てぃだ)降りの陽が瞼の裏に淡紅色の天界を創る。ヒト小舟と化し、天界を浮遊する至福の時。我が魂は、にわかに紅色の天界の高みに離脱し、ヒト小舟と化した身体を、慈しむように見下ろしている風情である。
 突然、冷気が背中を刺す。海水の斑(まだら)な温度差が背中を撫でる。開眼すると、人工ビーチの護岸側の防波網の辺に達していた。海辺から百メートル程の処まで流されてきたのだ。立ってみると、背丈程もない。爪先立つと岩場であった。砂もヒトもここで堰き止められて外海へ流されないように仕組まれているのだ。
 ヒト小舟と化した身体を浜に向けた。
 しばらく手の櫂を動かしていると、背中の冷気が緩んでいくのがわかる。
 閉眼すると、再び淡紅色の天界が、瞼の裏に蘇ってきた。
 ヒト小舟に化して、いつかこっそり、我が瞼の裏の淡い紅色の天界へ消えていくのも悪くはないと思えた。
 舳(へ)先の耳に海浜の喧騒が届いていたが、今しばし、ヒト小舟のままで、浮いていたいと思った。


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