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2012年01月20日

がじまん第230号

トイレと神様
金城光男

 このエッセイは、「新年早々尾篭な話で恐縮ですが」で始めなくてはならないのかもしれない。20年前の日記に、正月にトルコで遭遇したトイレでの災難について書いてあった。それがヒントとなった次第である。
 トルコは英明な政治指導者の下、目覚しい経済発展を遂げ、民主主義を奉ずるモダンイスラム教国として中東の盟主として台頭しつつある国である。20年前の話を持ち出されても迷惑かもしれない。
 外国を旅行しているとトイレの様式が国によって千差万別であることに気が付く。洗浄器付が普及している日本は番外として、トイレがあればまだ良いほうという国もある。カンボジアの農村部ではトイレがない。綺麗好きの日本人が衛生状態の向上にと学校にトイレを作って寄贈しても、一年も経つとほぼ使用不能に陥っている。彼らの生活文化に馴染まない施設だから適切な維持管理ができないからである。
 トイレがあれば一安心とも言えない。最後の清めの手段として紙の備えがないと日本人は困るのである。持参すればいいのかと言うとそうでもない。排水菅を詰まらせるから、それも禁じられている。しかしそういうトイレにはちゃんと水が用意されておりそれを使って左手で清めるルールがある。「左手は不浄」と言う言葉はそこから来ている。
 さて、冒頭のトルコに戻るが、大きなフェリーが発着するある港町でのこと。小奇麗なレストランで昼食を頼んだ。私の消化酵素になじまない料理だったのか、フォークを置くとすかさず急を告げる警鐘が腹部を襲う。
 トイレに飛び込むと予期していた通り紙は置いてない。が、手の届くところに水道の蛇口があり、水を受ける空き缶がおいてあった。紙はなくても水があれば何とかなる。何度も経験している事である。腹部の警鐘も収まりひとまず安堵した。
 神様は意地悪だ。災難はそこで発生した。その日はあいにく断水していて蛇口をひねっても水が出てこない。水がなければ、どうしてトイレから出られるだろうか? 私の頭の中は混乱し、大パニックに陥った。危機脱出策が次々と否定されていく中で、一縷の望みを托して空き缶を覗くと、なんと締りの悪い蛇口から滴る水が溜まっていたのか掌一杯分の水が辛うじて残っていた。神様も捨てたものではない。水を一滴も零さないよう、細心の注意を払って最小限の清めの儀式は執り行われた。
 そそくさと店を出て不浄感が残る左手を徹底的に洗浄する場所を捜していると、目の前に、いくつもの水栓が付いた大きな円形貯水槽が目に入った。モスクに入る前に敬虔な信者が手足を清める神聖な場所である。失礼して私も仲間に入れてもらった。
 油断大敵第2の危機発生。つい力が入ったのか蛇口がすぽっと抜けてしまった。慌ててそのまま押し込むと水は何とか止まった。よほどの年代物なのだろう、いつまた抜け落ちるかも知れない。不浄の手どころか、私は後を振り返らずその場から夢中で逃げた。


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