2016年02月19日
がじまん第327号
先生、教員、教師
職業を問われると、私は「教員」と答える。
一歩先に学んだことを伝授する――これが教育であろう。
看護の先生には臨床看護師だったひとが多い。あるいは、現在も臨床で活躍している師長や看護部長たちに講義を依頼することがある。現場の醍醐味を生き生きと伝えてくれる。学生たちも胸をときめかせて拝聴する。そういう臨床看護師を招き、自分も感動して聴きながら、「待てよ、看護という教科は、それで良いのだろうか」と考える。「看護教育に教育学部卒は要らないのだろうか」と。
授業は、通常、その日に伝えたいことを最後に持ってくる。導入からジワジワと周りを詰めていき、生徒たちの反応をみながら進める。理解度や集中の度合いを測るため、ときどき生徒に質問してみる。ほんすじに近づく回答なら、心の中で「よしよし」とつぶやく。遠ざかる回答には、「困った」と思いながら、「それもありますね」といい、別の生徒を指名する。
よくできる生徒というのは、教科書を読んできている生徒だ。その生徒は、先生が何に向かって授業を進めているのかわかっている。そういう生徒が手を挙げても、先生はすぐには指名しない。自分のシナリオがショートカットされると困るからだ。
「困った」という状態にあるときは、なんとか正解に向かうよう誘導を試みる。どんどん脱線していくことに困り、顔を赤らめているとき、いわゆる「できる生徒」が助け船を出す。その生徒は、先生よりうわてである。予習してきて、他の生徒に教えることができる、一歩先に学んできているその生徒は「先生」だろうか。
看護に限らず、数学でも国語でも、その領域のすべてを教えることはできない。何を教えているかというと、教科の基本を通して、その「考え方」を教えている。自分で考える力を育てるために、教科をツールとしているにすぎない。おとなになって学校のことを思うとき、心の中に残っているのは授業内容ではない。先生そのものであることが多い。あるいは先生のことば。先生のもっとも伝えたかったことだ。それは哲学ともいえる。
同じ「教える」という行為をするひと、先生と教員と教師は、どう違うのか。
「先生」は、教科の内容を伝授することができる臨床看護師もなり得る。
「教師」は、おとなになっても心に残るものを授けることのできるひとであろう。
理科にも社会科にも、家庭科にも、そして、看護にも哲学がある。教科科目を通して、ひととしてのあるべき姿を示すことのできるひとを「教師」というのではないだろうか。
職業として教えることはできるが、「教師」になり得ない私は教育学部卒。どんなにがんばっても「教員」どまりだ。
恩田和世
職業を問われると、私は「教員」と答える。
一歩先に学んだことを伝授する――これが教育であろう。
看護の先生には臨床看護師だったひとが多い。あるいは、現在も臨床で活躍している師長や看護部長たちに講義を依頼することがある。現場の醍醐味を生き生きと伝えてくれる。学生たちも胸をときめかせて拝聴する。そういう臨床看護師を招き、自分も感動して聴きながら、「待てよ、看護という教科は、それで良いのだろうか」と考える。「看護教育に教育学部卒は要らないのだろうか」と。
授業は、通常、その日に伝えたいことを最後に持ってくる。導入からジワジワと周りを詰めていき、生徒たちの反応をみながら進める。理解度や集中の度合いを測るため、ときどき生徒に質問してみる。ほんすじに近づく回答なら、心の中で「よしよし」とつぶやく。遠ざかる回答には、「困った」と思いながら、「それもありますね」といい、別の生徒を指名する。
よくできる生徒というのは、教科書を読んできている生徒だ。その生徒は、先生が何に向かって授業を進めているのかわかっている。そういう生徒が手を挙げても、先生はすぐには指名しない。自分のシナリオがショートカットされると困るからだ。
「困った」という状態にあるときは、なんとか正解に向かうよう誘導を試みる。どんどん脱線していくことに困り、顔を赤らめているとき、いわゆる「できる生徒」が助け船を出す。その生徒は、先生よりうわてである。予習してきて、他の生徒に教えることができる、一歩先に学んできているその生徒は「先生」だろうか。
看護に限らず、数学でも国語でも、その領域のすべてを教えることはできない。何を教えているかというと、教科の基本を通して、その「考え方」を教えている。自分で考える力を育てるために、教科をツールとしているにすぎない。おとなになって学校のことを思うとき、心の中に残っているのは授業内容ではない。先生そのものであることが多い。あるいは先生のことば。先生のもっとも伝えたかったことだ。それは哲学ともいえる。
同じ「教える」という行為をするひと、先生と教員と教師は、どう違うのか。
「先生」は、教科の内容を伝授することができる臨床看護師もなり得る。
「教師」は、おとなになっても心に残るものを授けることのできるひとであろう。
理科にも社会科にも、家庭科にも、そして、看護にも哲学がある。教科科目を通して、ひととしてのあるべき姿を示すことのできるひとを「教師」というのではないだろうか。
職業として教えることはできるが、「教師」になり得ない私は教育学部卒。どんなにがんばっても「教員」どまりだ。
Posted by 沖縄エッセイスト・クラブ会員 at 13:00
│会報がじまん